今回はこぼれ話です。
大学4年生のとき、私は歯科助手のアルバイトをしていました。
バイト先の歯科医院の先生は、私が生涯において尊敬する大人・ベスト3に間違いなく入るであろう、”完璧な秩序”の中に人間味溢れる、素敵な方でした。
歯医者とアンスリウム
朝8:30に出勤し、18時に帰宅するまで、先生の全ての行動には決まった順序が存在し、「右足が先か、左足が先か」さえも定められているかのごとく正確でした。
治療はもちろん、そのほか全ての行動においてブレがなく、まるで完璧なフローチャートをなぞるように、1日が進んでいくのです。
完璧、とは言っても、先生はロボットのような人格だったわけではありません。
治療室に咲いているアンスリウムに愛情を注ぎ、待合室には奥様が描かれた油絵を飾り、医院のBGMには旅先で教わったというゴンチチの音楽を流し、休みの日には歯科医仲間と鮎釣りに出かける…。
このように、人生に愛を持って過ごされる姿が印象的でした。
威厳のある先生に、わたしたちからフランクに話しかけに行くことはほとんど無かったけれど、ある日の開口一番に、「ポケモンGOでコイキングを捕まえたよ」と教えて下さったこともありました。
歯医者と覗き見
先生にはこんな一面もありました。
治療に向かう患者さんが医院に小走りしてくる様子を窓からひっそりと覗き、
「あいつまた走ってるよ、これから歯を抜くってぇのに。しょうがないね。」
と、悪戯な笑顔を浮かべたり、
患者さんが帰ったあとで
「あの人いつも同僚と来るけど、いい大人が1人で歯医者に来れないもんかねぇ。」
と茶化したり。
ただし、極端なことを言ってふざけてみたりするときでさえ、その目にはいつも愛情が宿っていたのです。
歯医者と松の盆栽
そんな先生がある日、「始めたばかりなんだけど、1つ小さい松を持ってきたよ」と受付に盆栽を飾り始めました。
「盆栽、私の父も育てています。先生は盆栽の育て方、詳しいのですか?」と私。
「いやいや、あのね、難しいから一生懸命 HowTo本を読んでるんだよ。全然分からないもんだから。ただね、僕はタブレットを持っていないのに、間違えてKindleの本を買っちゃったんだよ。Amazonでホイ、ホイ!と購入ボタンを押したら、Kindleだったんだ。あちゃー!と思ったんだけど、“電子書籍を返品”ってわけにはいかないでしょ?仕方ないから盆栽やりながらパソコンで本を開いてさ。パソコンと庭の往復。」
そう言って先生は笑いながら、カルテを書きに部屋へ戻っていきました。
なんということのない話なのですが、盆栽、と聞くと、私は必ずこの日の会話をふと思い出し、そして、どうも温かい気持ちになります。
先生、お元気かなあ。