盆栽には深い歴史があります。
日本らしい文化のように思えますが、起源は中国にあり、唐の時代(日本では平安時代)に盆の上で植物を飾る「盆景」として伝わりました。
そして平安、鎌倉、室町、戦国時代などを経て、江戸時代になったところでようやく庶民の趣味となります。
ここからは江戸時代に広まって以降の盆栽について記述します。
「江戸時代」庶民の娯楽となった盆栽
盆栽と庶民の関わりは、江戸時代を境に大きく変わります。
それ以前は貴族の遊びや神事に用いられた盆栽が、今でいうガーデニングや家庭菜園の感覚で庶民も楽しめるようになったのです。
一方、偉い様が盆栽をしなくなったかというと、そうでもありません。
江戸幕府の徳川家光将軍は盆栽の愛好家で、松の盆栽を大事にしたなんていう逸話もあります。
まだ公には鎖国をしていた1800年頃には、中国から学者が渡来し、大阪の辺りで盆栽についての議論や、更なる伝来、文化交流などしたという記録もあります。
この時期に外国との交流に用いられるのは、海外でBONSAIとして愛好される今の時代にも通ずる不思議な出来事ですね。
その後、知られる通り、日本は開国をし、海外との交流が盛んになり、明治時代へと入ります。
「明治時代」相変わらず老人の趣味とされた盆栽
明治以降の日本は、海外からの文化をより多く取り入れ始めます。
盆栽に関しても、この頃から針金で枝の行き先や向きを整え(針金整枝法)、管理の仕方も柔軟になり、いわゆる自然の模型だった盆栽が、一種の芸術作品として意識されるようになります。
同時に、季節によって盆栽の置き場所を変えたり、風や日差しや害虫などを除けたり、盆栽の管理はより複雑に、そして効率的になります。
その事が原因かは定かでありませんが、明治以降も江戸時代と同様「盆栽は暇な年寄りがやるもの」という風潮は変わらなかったそうです。
「大正~昭和」大宮盆栽町の誕生
昭和に入ると、盆栽に一つの転機が訪れます。
大正時代の終わり頃、関東大震災(1923年)が起こりました。
この時、盆栽を扱っていた業者や生産者が揃って埼玉県の大宮市に越します。
そこで大規模な盆栽の栽培や生産を再開したことから、地区の名前が「盆栽村」(現在の大宮盆栽町:ぼんさいちょう)となりました。
越した理由は震災の被害が少なかったこともありますが、土壌や気候が盆栽に適したといわれます。
この大宮盆栽町の成り立ちが、後の日本全体の盆栽文化の繁栄の多くを担います。
太平洋戦争(1941~1945年)を挟み、昭和の後期になると、また盆栽は海外の文化や人々とふれ合うようになります。
昭和40年(1965年)には「日本盆栽協会」が発足。
協会の会長は歴代の総理大臣らが務めるなど、盆栽は庶民とともにまた一つの高級な趣味としてよみがえりました。
今回のまとめ
江戸時代から昭和までの盆栽の歴史についてまとめました。
平安時代に伝わり、江戸時代までは貴族の趣味だった盆栽が、江戸の自由な時世とともに庶民の手に渡り、明治、大正、昭和まで庶民の手によって伝わります。
大宮盆栽町の成り立ちによって、盆栽は大規模に管理され、日本各地に有名な盆栽の産地も増え始めます。
時代はさらにグローバル化し、平成以降、盆栽はまた新しい時流へと乗り出していきます。